国際B級最初のシーズンも順調にポイントを重ね何とか国際A級・I-Aに昇格レースを始めた時の目標でもあったA級にはなれた。1983
さあどうしよう?ずっと上のクラスも走ってみたかったので250ccクラスにチェンジした、マシンはYAMAHATZ・250レースを始める前から憧れていたマシンでもある。
1983
マシンはYAMAHATZ・250初めてのマシン・スリックタイヤに戸惑い思うようにタイムが伸びず。記念すべき国際A級の緒戦は予選落ちの憂き目に。かなりへこみました。
迎えたI-A250第二戦スズカ200kmレース。万全の準備で望み無事(フルグリッドで44台の)44番目でぎりぎり通過!あ〜良かった。
レースでは着々と追い上げ15位でフィニッシュ。1ポイント獲得I-A250でのリザルトの全てです。スズカS字。維持していけないのでこのレースを最後にマシンは処分しました。
急遽クラス変更、古巣に戻りました。マシンはRS125RWV型ゼッケン40もこの一回だけ。

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しかしこんな形で挫折したくはなかったが、タイムの伸び悩み、維持費・一回エンジンが焼きつくと軽く20万円ぐらい飛んでしまう。6月のレース後(スズカ・200Km)売却を決め次回9月のスズカでのレースは再び125クラスに戻る。↑
この頃仕事でも転機にレースに出場しようとすると1回に最低でも2〜3日・ツクバ・菅生となると土日挟んでも4〜5日はやすまなければならず。毎回その度にいろんな嘘をついて誤魔化してきたが、爺ちゃん婆ちゃんを何回も殺した。ネタも尽きて居ずらくなってきたので、会社を辞めレースに専念しようかと、正社員になっていたら一緒だから、気軽に休めるように?定職には着かず、アルバイト生活に。フリーターのはしりでした。自慢にはならないが。
1984
84年シーズンA・125第1戦今年は出来るだけシリーズを追いかけようと思っていました。そうして意気込んで迎えた第1戦宮城県のSUGOサーキット、スタートは良く良い位置に付けていたんですが、気負いすぎて2周目に転倒。ポストでマーシャルの人に貰ったタバコが美味しかった。
続く第二戦、筑波サーキット何位だったか良く覚えてませんが確か9位か10位だったと思います。場所はツクバの最終コーナーです。
迎えた第三戦スズカ大きなターニングポイントになりました。レースも中盤、8位位に着けていたと思います。シケインの進入で転倒(またかよ!)それまでも幾度となく転倒は経験してきたが大きな怪我はしませんでした。が今回は転倒は派手ではなかったのですが右膝強打、マシンのダメージもありましたがそれより膝の痛みで走れず1周してピットインリタイヤ。

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フリーターになり心機一転挑んだシーズンであったが、第1戦転倒焦りがあったのか。鈴鹿でシケインで転倒は違う意味で痛かった。シケインということでスピードもそれ程じゃないから(といっても60〜70Kmは出てる)膝を突くような転び方になったと思う。痛みはあったが膝は動くしサーキットの医務室に行って診てもらったが骨に異常はないでしょうといわれ、打撲の酷いのだと思ってました、その後痛いなと思いながらアルバイトも続け、1週間ほどしてもあまり傷みがひかないので、仕事サボる気分で病院に行ったらなんと!(右膝の靭帯が切れていた)残りのシーズンを棒に振る。手術・3ヶ月の入院、
翌シーズンに駆ける。懲りない。僅か3レース走っただけの84年でした。