4年シーズンを怪我で棒に振り、翌85年シーズンも数戦参戦はしたが、結果を残せず終わる。25歳 来る86年シーズンを前に続けるべきかどうか悩みました。チームというかたちでエントリーをしていましたが。(チームと言っても名前だけで実質プライベート参戦、好きな者が集まって名乗っていただけ)いろんなしがらみなどが嫌だったから。正真正銘プライベートで(個人で)エントリーをしようと決め、86年シーズンを向かえました。26歳、良くも悪くもこのシーズンで7年間のレース生活にピリオドを打つつもりでのぞみました。
インターナショナルスズカ200kmオートバイレース、スズカでの2戦目。今年はお金もないし、頑張りすぎてもまた空回りするだけだだから。
スズカ3戦のみ出場します。第1戦のレースは14・15位でパッとしませんでした。第2戦のこのレースの予選はハーフウエットで難しいコンディション20番手ぐらいの中団に沈みました。翌日は完全ドライコンディションでウオームアップ走っているとき「今日はなんだか調子良いな」って感じはありました。そしてスタート絶妙のクラッチミートでロケットスタート1コーナーの侵入で前には数台しかいない7・8番手「よし!」 4・5週目には他の選手のコースアウトにも助けられ、一時3位に浮上!走りながらふと思った、「ツナギはノービスの頃から着ている物だし、かなりくたびれてる。表彰台に上がったらかっこ悪いな・・・・」集中しろ!その後抜きつ抜かれつ結果的には5位フィニッシュ。国際A級にならないと賞金はもらえないのでそれが嬉しかった。僅か8万円の賞金ですがレースをしていて始めて稼いだお金です。
パッとしなかった85年シーズン。国際A級は赤ゼッケンに白のナンバー、ナンバーは前年度のランキングを表している。
1986年全日本ロードレース選手権スズカ200Kmレース、予選は低迷していたが好スタートの後、久しぶりのトップグループでのレース展開。ワクワクした、いきなりベストラップを5秒近く短縮しての走行、異次元の世界。旧3コーナー立ち上がり。
同レース3コーナーの立ち上がり。 当時よく買っていた雑誌(ライダーズ・クラブ)の世界GPレポートでよく見たアングルのショット。来ていることも撮っているの全然知らなかったが中学の同級生が撮ってくれました。

ユーチューブ動画
同レース・スズカ・逆バンク路面のうねりがなんともいえないコーナーです。好きなコーナーでした。
200kmレース予選セッション中、メカニックを務めるのはレースを退いた昔の仲間。高校時代からの付き合いで無償で付き合ってくれる、良き仲間です。
予選出走直前・ピット上から、カメラマンは今の奥さん。私の一番気に入ってる写真です。この頃白黒写真も好きで良く撮って貰いました。

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1986年スズカ第3戦日本グランプリスタート前グリッド上一番嫌な時間帯、このレースには500ccクラスに当時絶頂期であったアメリカの(フレディー・スペンサーが出場しており、普通の全日本選手権レースでは見られない盛り上がりと・観客数だった。此方はその観客数と雰囲気だけ便乗して良い気分だった、自分のことを見に来たんじゃないかと錯覚しそうなぐらい(錯覚じゃなく・ただの勘違い)125ccのマシンにまたがりこのグリッドにつくのはもう最後かと思うと・・・・なんて感傷に浸っている暇はない。
東コースS字6コーナー・2速ほぼ全開のコーナー。スピードメーターなんて物はないし何Kmぐらいなんて意識して走ってないので良く解らないがたぶん130〜40Kmぐらいかな、フルバンクで膝を擦りながら。今じゃ想像できないくらい。このマシンは一度手放したのですが、買戻し今も手元に有ります。リビングに置いてあります。
スタート前のウオームアップラップの直前ピット前にてしばし集中力を高める。といっても初めてのカテゴリーのレース不安だけで正直集中しにくいが。レースの戦略も何もない、スタートしたらただ行くだけ
マシンは・SUZUKI・GSX-750いざ予選に。ノービスから着ているまだ汚いツナギこけたら死ぬぞ!
東コースS字入り口4コーナーから5コーナーへの切り返し、重い!結果は20位前後だったと思う、ビリじゃなかった。無事ゴール最後のレースになるはずだった。
しぶりのニューツナギにうきうき、SUZUKI竜王テストコースにて練習走行、28歳。この時代は丁度バブル景気に入った頃でプライベートでも多少のスポンサードは受ける事ができました。8耐というだけで、ツナギ・ブーツは新調、ブーツはまだですが。まだ家に有ります。
実質最後のレース!お遊び、YAMAHAが主催する、YSR80レース、出入りしていたバイク屋で、お遊びで出てみないか?と誘われ、八耐の時に作ったツナギを着て、「かなり本気モード」練習も無しでいきなり、場所はなんと自動車学校の教習コース。恥ずかしながら3位。

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9月日本GP125で引退するつもりだったが、直前になって考えもしなかった話が。チーム時代の後輩がTT-F1クラス(750cc)に出場していたが、日本GP後のスズカ・2&4レースには出るつもりがないから、「マシン空いてるし、一回出てみる?貸してあげるから」と降って涌いたような話。二つ返事で「出る」 思いがけない展開に、ただ一つの不安を除いて。MFJ(日本モーターサイクル連盟)のライセンスは自動2輪免許を取得していれば良いのです。排気量が大きなクラスでもサーキットじゃ免許は関係ありません。出場クラスはライセンス区分で決定されます。国際Aは何でも乗れます。私は中型自動二輪免許です。だから750ccのバイクは運転した事がありません、初めてのナナハンがサーキットでガチンコのレースです、今思えばむちゃくちゃな話です。小排気量クラスばかりの出場だったので、重さが気になります。スピード自体は125でもレーサーはストレートでは200kmを超えます、市販車・ノーマルの750ccと競争しても間違いなく125レーサーが速いです。   こうしてTT-F1出場が決まりました。 この頃仕事は? 勿論アルバイトです。26歳
TT-F12&4レースで引退したはずだった、その後以前痛めた右膝をこの機会に再手術をすることに。4ヶ月の入院、退院後も少しの間アルバイト生活を続けたが、流石に定職につかないとと思い。都市ガスなどの関係の設備会社に就職しばらくは大人しく働いていましたが!8耐(世界選手権スズカ8時間耐久レース)2ヶ月前になって突然、以前TT-F1の時マシンを貸してくれた後輩が「一緒に八耐出てくれませんか?」と「エッ!」「もう2年も走っていないのに?」・「大丈夫です!予選のタイムは僕が出しますから!ただ来て頂ければ良いです。」と言ってもマシンに慣れるには時間がなさ過ぎる、結局八耐までに1回しか練習できなかった、8耐のフリー走行・予選が練習になってしまった。ツナギ・ブーツを新調して貰い、レース費用などはお金は一切要らない。美味しい話のはずだったが。相棒が予選で転倒!タイム出ず・・・わたしはそんな予定がなかったので、予選でいきなりタイム出せと言われても無理!だからもっと練習しとけばよかった。残念無念!予選落ち・・・そんな一瞬の復活劇でした。結婚半年前29歳。