発症
入院
リハビリ
現状
退院
発症・半年
発症・1年
帰郷
もう2年・まだ2年
3度目の春
うまくはかないもの
卒園
闘病生活、悪い事ばかりじゃありません、T 息子の保育園卒園式はいけませんでしたが、保育園最後の登園?には朝、着いていきました。車から降りて元気よく走っていきました。普段はなかなか見られないものも沢山見ることができました。
入学2005・4

闘病生活、悪い事ばかりじゃありません、U 普段子供の行事ごとは奥さんに任せっぱなし、元気で働いていたらたぶん行かなかっただろう長男の小学校入学式、ちょっと勇気を振り絞って行ってきました。子供にとってもいい思い出になればと思います。どんな校舎で、教室で勉強するのか、この目で見ておいただけでも安心です。積極的に外には出るようにしています。
リハビリ

退院後も月に一度のペースですが言語療法のリハビリは通っていました。治療内容は良く分かりませんでしたが、毎回 高次脳機能障害の半側空間無視のためのテストが行われます。4ヶ月ぐらい経ったこのとき、STの先生に痛い質問をされました。

普段はどのように過ごされていますか?答えようとしたとき,すかさず奥さんに「何も予定がないとテレビを見てだらだらしています」と言われてしまいました。みっともないのでいい訳はしたくないのですが、

後遺症のせいで?先が見えない不安と苛立ちとで無気力・欝(うつ)との戦いでした。」先生に「何か始めたらどうですか」・・・「漢字検定とか」・「パソコンとか興味ないですか?」・・・「パソコンなら・漢字検定は勘弁して下さい」。「近くに身障者対象にパソコンを教えてくれるところに行きませんか」・・・「行かれるならお願いしておきますよ」と、この先生の押しの強さにはいつもまいります。でもそのおかげで幾度となく救われました。この先生に尻をたたかれなかったら、今頃どうしてるのか、感謝しています。

いつも心のどこかで「いつか誰かが助けてくれるんじゃないか、手を差し伸べてくれるんじゃないかと待っていました」そんな勘違いに気が付くのに時間がかかりました。j自分で行動を起こさなければなにも変わらない、健康な時は何か行動をこすのにも気力・体力共に障害を持ってからのほうが何倍も必要です。障害を持たないとわからない事が沢山あります。そのなかで手を差し伸べてくれる人の優しさ、ありがたみも知りました。

無気力との戦い・音痴になった


感情の障害・モチベーション維持との戦い。泣き言を言っても始まらないが、失ったものが多すぎる。この病気は脳の損傷を受けた部位には一切痛みなどはないので、自分は本当に障害者なのと思うときがある、動かない手・足を見て実感するぐらいで、ことの重大さを忘れる時がある。だからいつも自分の尻をたたいていないと、すぐに「ダラ〜っ」としてしまう。
根は「ダラ〜」としているのが好きな性格のはずだが、時間があれば探してでも何かゴソゴソやっていた、日曜大工・くるまいじり何もできない。それとある意味原点でもある、バイクに乗れない!あまり知られていないが10台の頃フォークが好きで、井上揚水・かぐや姫・松山千春・サイモン&ガーファンクルなどなど、ギターを弾いて朝まで歌っていました。18番は平浩二・バス・ストップですが、今じゃギターどころか、喉の筋肉・(声帯)の麻痺で歌もまともに歌えません、そう音痴になってしまった、音がはずれているのは分かっていても、コントロールできない、歌うにも声が出ない。失語症にならなかっただけよしとするしかない。舌は疲れるが会話には困らない。こうしている間も、少しぐらい頑張っても今すぐ結果が出るわけでもないから・・・・でもやらなきゃと葛藤しています。分かってはいるけど、どんどん落ちていってしまう・・・出口が何処にあるのか分からない、早く見つけなきゃ。
気持ちの切り替え

体の状態は痛みも出ないし、確実に良い方向には向かっているのだが。当初の私の勝手な、根拠のない予定からは大きく外れていた。発病当時3ヶ月もすればから、半年もすればに、そのうち春になれば・・・職場復帰がどんどん伸びていく。よく「あせってもしかたないからのんびり」と声をかけてもらいますが、そんな訳にはいかない。のんびりしていたら寝たきりになってしまう。そんな自信がある。でも本心は認めたくなかっただけで、2年かかるか、それとも5年かかるかいや、10年はかかるか?と思っていました。でもそう思っちゃうと、気力が続かないから、考えないようにしていただけ。この頃の収入は傷病手当金だけで、足らない部分は、貯金を崩しながらの生活でした。

いつまでもそんな生活を、続けられるわけがありません。傷病手当金も発症から1年半で打ち切りだ。とにかく仕事をしなくては、でも体の回復を待てるほど余力はありません。前にリハビリのSTの先生にお願いしておいた、パソコンをまじめに勉強して仕事に繋げられないだろうか,もういい加減開き直って、残った機能でできる事を探そう。45歳の手習いです。勉強嫌いだったのにこの歳になってからまた勉強か!環境が変われば気持ちもかわる。この病気は体の障害との闘いより、障害を持ったことに対するメンタル面の低下との闘いの方が大きい気がする。頑張るぞ!とテンションが上がっても、半日後には「ヘナ・ヘナ」ってなる時もある。
自分の中で、なにかにつけ「障害があるから・障害者なんだから」 「できなくても・やらなくても」しょうがないと逃げている、いい訳をしている・・・「情けない、こんな事で良いのか」?!って毎分・毎時間・毎日、頭の中をグルグル回っています。
車の運転
発病前に乗っていた車はマニュアルの左ハンドル車でした、今の現状ではクラッチが踏めません、それどころかハンドルが掴めません。何処に行くのも奥さんに載せてってもらいます。いつまでもこの状況だとお互いストレスもたまるし、自分で運転したいと願い出て、春ごろからお値打ちな軽自動車のオートマチック車を探していました。自分で運転できれば行動範囲も広がるし、気持ちも変わるだろうと、ワクワクでした。それまでにも数回自宅の車は運転してましたし。高次脳機能障害の半側空間無視はSTの先生にしっかりチェックしてもらいOKが出ました、「車の運転しても良いですよ」。9ヶ月ぶりに公道再デビューです。運転には特別問題はありませんでした、嬉しかった「これで何処でもいけるぞ!」以降リハビリや病院通いなど自分1人で行くことにしています。
PC教室 7月

行動範囲の広がった私は以前病院のSTの先生にお願いしてあった、パソコン教室に通う事にパソコン教室といっても、民間のパソコン教室などとは違い。近郊にある障害者生活支援施設西濃サンホームで行われるもので、6月の終わりから毎週週に1回ですが、リハビリ以外に週に一度の予定ができたのは、私の中では大きな進歩でした。それまでにもPCはいじっていましたが、メールをやり取りをする程度でとても使えるというには程遠いいものでした、何でも良いからやってみたかった、気を紛らわす為にも。
緊張の初日

講師の方は2名お二人とも中途障害者、脊椎損傷で車椅子、障害を持ってから本格的にPCの勉強をされ、人に教えるまでに。事情は違う・頭の中身 も違うにせよやれば出来るんだな!とやる気が出てきました。いつまで続くか?講師なんてことは考えていませんが、将来的にPCを使った簡単な事務仕事でもあればと思っていま す。以後職員の方、講師のお二人にはいろいろ相談にのって頂いています。障害者という同じ立場で、意見を聞けるので説得力が違います。大変失礼な言い方ですが、自分が大変・不幸だと思っていたのが恥ずかしく思えました。杖を突いてでも自分の足で歩ける、その上車を運転して好きな所へ行ける。一生車椅子にならなかっただけ
幸せなんだ。 と思うようにしています