帰郷

発症
入院
リハビリ
現状
退院
発症・半年
入学
発症・1年
もう2年・まだ2年
3度目の春
うまくはかないもの
同窓会  20065/20(発症・1年10ヶ月)
少し前に、中学の時の同窓会の案内が来ました。こういったイベントも嫌いじゃないのですが、この今の状況を考えると・・・勝手に、こんなぶざまな姿で参加するのも気が引け参加するかどうか迷いました。でもそんな心配を他所に、皆暖かく迎え入れてくれました。社長になっている同級生、悩みを抱えている奴もいました。障害を気にしているのは自分だけで、「逆に恥ずかしい思いをしました」そんな自分の心の中のことを改めて、考えさせられました。30年前と変わらず、○○君と呼んでくれる仲間に勇気付けられました。一杯元気を貰い、また明日からガンバろうってモチベーションも上がりました。 「さあ!」いつまで続くか?。
自分では50点ですが
PS 発病後、
あまりお酒を飲む機会などなかったので、アルコールが入っていい気持ちになったとき、ちゃんと歩けるか心配でしたが、以外に大丈夫でした。 「結構いけるじゃん」と思いました。 「2次会」にお約束の「カラオケ」に誘われ、「歌えないよ」と言って断ったんですが、そんな訳にもいかず・・・18番だった「バス・ストップ」を入れられてしまい、「こまったな〜」と言いながら、リハビリのつもりで歌わせてもらいました。娘と童謡を練習した成果か?以外に声は出ました、1年前よりは回復しているみたいです。
どんどんカラオケに行こう! そうです、なかなか進まない回復に、嫌気がさしたときなど、「一年前に比べれば良くなったじゃないか」と自分を慰めています・・・・


2006・6
 最近は闘病記とは言えなくなってきた、実際、治療らしいこと、リハビリらしい事は3月末から何もしていない。・・・・以前も紹介した医療法改正や何やらで、このまる2ヶ月は今まで治療を受けてきて、良いと思われる運動などするのみなのだが。心配された体の変化(硬縮)は特になく、ぎりぎり現状維持はできている。陽気も良くなったので、なるべく動くようにしなくてはと思うが、炎天下歩くのもよくないし、この寂しいご時世、日中ウロウロしていると不審者に間違えられる、そんなおりタイミングよく?

近所に日本でも最大級の規模を持つと言われる巨大ショッピングモールがオープン。2階建て吹き抜けで巨大な町並みのようになっている、端から端まで行って帰ってくると、かるく1キロはある・・・いろんなお店を眺めながら歩いていると飽きない、杖を突いての歩行だが、午前中の時間帯なら割りに空いていて、いい運動になる、全天候型だし、外は暑くても館内はクーラーが効いてるし、快適でした。毎日行くと不審者と間違われるから週に2〜3回通いました。
2006・6・16 左手親指開く反応でる、1月の大胸筋の反応以来の、「目に見える」変化。開く反応がでるという事は、左腕の硬縮も落着いているようだ。ここまで1年と9ヶ月、後何年かしたら動くようになるだろう。
独り言

もうすぐ1年10ヶ月、ここまで障害者やってみて、思ったこと。この病気【脳梗塞】で左半身麻痺になり。条件がよければ杖なしで歩けるまでに回復したし、上肢も肩は動くようになった。自分で思うに、本来の動き(運動能力)の数パーセントしか回復はしていない。でも運動麻痺は時間が経てば慣れてしまう、動かない状況が当たり前になる。もちろん忘れているだけで、生活の中で現実は「できない」となって現れてくる。そんなことより、精神的な負担の方がはるかに大きい、それが現実だ。でも1年前より随分進歩したじゃないか、と自分を慰めています、以前5年前ぐらいからPCはいじっていたが、メールぐらいしか使えなかったのに、丁度1年前、必要に迫られ勉強を始め、HP作ったり、ちかじかマイクロソフトの認定試験を受けようかと思っています(就職の為に)。勉強嫌いだった少年・青年時代のことを思うと、嘘のような話です。常に何か行動を起こして、どこかに行って、誰かと話をして、変化をもたせないとすぐ、心は止まってしまいます。一度止まるとまた動き出すのに、時間と体力が要ります。だから人と会って話をするのは非常に効果的です。常にポジティブに物事は考えるようにしています。   何とかなるさ。・・・・・何とかしてみせる!

何故か ここ最近心境の変化とでもいうか、気持ちが楽になってきた。同じことの繰り返しになるが、確かにからだの自由は奪われ、なくした物も(目に見える、感じられるもの)沢山あるが、それ以上に病気になって、(どう考えても病気にならなかったら、巡り合えなかったような、巡り合わせ、励まし、気持ち)得たものが沢山あることに気付きました。あまりうまく言えません、何度も言いますが、体の障害は
時間が経てばその状況に慣れてしまいます。(諦めてはいませんが)自分が当事者になる前は、障害者・・・・からだが不自由で大変だな・・・・程度にしか思っていませんでした。が、「五体満足」のありがたみを、嫌というほど実感しました。障害の回復は遅々として進みませんが、でも私は幸いにも、アリが歩むよりゆっくりとしたはやさですが、進歩はしています。なのにいつまで経っても気持ちが晴れない、(スッキリ)しない。体が不自由だからか?と思っていましたが、原因は心の中にあることに気がつきました。自分の運命・さだめを恨み、(なぜ自分が)後悔し、心だけは先に進むことをしませんでした。勿論人それぞれでしょうが、この病気は後遺症として体の自由を奪うが、私が実感したのはそれ以上に精神的(メンタル面で)のダメージの方が大きかった。それに気が付くのにも時間が掛かった。知り合いに借りた本を読んで、思い知らされました「良かったことを探そう」(もっと複雑だが)そう考えるようになってから、嘘のように楽になった。その知り合いも病気にならなかったら、ありえなかった巡り合わせです。病気にならない方がいいに決まっているが。
2006-7/9(帰郷)仙台へ 
発症後初めての長旅です、本人的には不安はありませんが、道中なにがおきるかわかりません、「何とかなるだろう」。何故仙台に? 正確にいうと、東北地方・宮城県石巻市になります、私の生まれは宮城県です、でも生まれて半年で岐阜に来たので、生まれただけです。父親・母親は宮城県出身で、御爺ちゃん御婆ちゃんは他界、御無沙汰している親戚などに発症後心配をかけたので。「もうこんなに動けるようになりました」、という意味も含め、お墓参りをするのが目的、13年ぶりです。

移動は電車【新幹線】です、チラッと車も考えましたが、反対に合うのは目に見えていたので、口には出しませんでした。今は便利になったので、岐阜羽島駅から東海道新幹線・東京で乗り換え、仙台駅まで新幹線で行けちゃいます。その昔は、東海道新幹線はありましたが、その先は山手線乗り換え、上野駅へ、夜行電車で仙台に、夕方岐阜を出発しても、仙台は明け方みたいな感じでした。
その先はローカル線に乗り換え石巻まで約1時間。今じゃ乗り換えの余裕を見ても6時間あれば、帰郷できます。片道800km、その気になれば日帰りだって・・・・

今では主要駅にはエスカレーター設置してあるので、私みたいな片麻痺で杖を突いた人間もさほど困りません。この旅の最大の難関は、行きの仙台駅から乗り換えのローカル線でした、時間帯も少し悪かった、通勤ラッシュほどではないが、シートは全部埋まっていました、すぐに座れるだろうと持っていましたが、シートに座っている人は全然降りません。もちろん優先シートも有りますが、誰も立とうとはしません、こちらからわざわざ換わって欲しそうな顔をするのも嫌だし、
敵もあえて目を合わせないようにしているのが見え見えでした。「これが現実なんだな〜」改めて思いました。前後・左右に揺られながら1時間。かろうじて手摺に掴まり持ちこたえてはいましたが、足首の反応がまったくない杖のような足では、電車の揺れに対応する事はできません。なが〜い・なが〜い1時間でした。3泊の短い滞在でしたが、叔父さん叔母さんは口々に、「思ったより随分いいじゃないか、もう少しひどいかと思った。」・「そんなにひどいならここまで来ないですよ。」と、親類とはいいものです、たとえ十数年離れていようと、何百キロ離れていようと。僅かに血の繋がりがあるというだけで、親身になって心配してくれます。岐阜に出て来てからは数えるほどしか帰郷していません、そのほとんどが中学生以前、30年以上前の記憶ですが、不思議なものです、凄く懐かしく感じられます。行きのローカル線で1時間立たされ坊主以外は、特にトラブルもなく、3泊しただけで家に戻りました。